只今から昭和三十九年十一月七日夜の御理解を頂きます
例えばどんなに上手に着物の着付けをしてありましても、着物を着付けていない人が着ますとすぐに着くずしてしまいます。所謂そのすぐ乱れてくる。ところがこれは、私は、他のことは知りません。和服の場合です、それがその着物を着つけた人、いうなら着物がピッタリ身についた人は、例えば芸者さんなんかの場合ね、今にも帯が解けるような感じ結んで居られます。決して着くずれがないでしょう。どんなになさたっちゃ決して、その裾の方まで乱なさらん。あれはもう着物がピッタリ身についておるから、例えば芸者さんのような、こしらえを素人にさして御覧なさい、すぐ着乱れしてしまうね。所謂、着物が自分の身についてないです。ですから、着ておってもだからなるほど、借り物を着ておるという感じですね。着付けてない人、例えば洋服を着付けていない人が、洋服がどんなにあつらえて、作ったピタット身体似合うたのを着ておっても、自身なにか借り物を着ているような感じ、そのようなものではないでしょうか。ね。
信心も同じこと、信心がやはり身にピッタリつかなければ、私は、お陰を受けらないと思うね、今日の御理解は、例えばその、有難かったというて、言うて、それはきちゃっと、いわば御理解を説いてもらった人から、気づきしてもらったものぢゃないか、ところが、それを着ることに、本当に精進しないものだから、もう、家には脱ぐ捨ててしまっておるようなことだから、さあ、実際着ておらなければならないときに、もう自分の身からはずれてしまっておる。着ていっても、やはりなんとはなしに、自分も借り物のようであり、また、着ておってもピッタリ身についていないという感じ。
コツさえというのは同じことだと思う。どうでも一つ信心が本当に、信心を頂いておりますという信心が、身につかなければいけん。そこのところを、教祖の神様は「神徳を得よ、人徳を受けよ」とおっしゃっています。「神徳を得よ人徳を受けよ」と。まあ、いうならば、なんでしょうかね。実力を使っていくということは、神様から愈々ご信用を頂くところの、神徳になっていくでしょうね。それから形の上でのこと。
先ほどから、東さんがお届けされますように、この頃から部長試験を受けられた。おかげで一次だけは通った、また、二次の試験を受けるからとお届けがあっておった。ところが、それは今日不合格だったという通知が来たこういうね。これなんかは、いうならば、そんならいかに東さんがその警察官としてのですたい。長年の功とかまた、実力ということにおいては、この人に認められる、人というか、実際の実力があってもです、これはだからというてなら、昇級するわけにはいかん、やはりそのときの試験に合格してゆかなければ、部長にもなれない。ですから、実力がなくても、学問が出来て、部長になる人も、もっと上になる人もあるということも、だから言えれるわけですね。
いわば神徳も人徳も相まっていくことだと思ですね。神様からも人からも認められるという。いうならば、まあ、椛目の方たちのどちらかというと、実力派の方が多い、神様から、なら、ここのところまでは、許されておるだろうけれども人はそれをそこまで認めていないことになるわけですからね。
そのそこでなら、お道の信心のです形の上であるというか、または、教学的というか、そういうようなものも、一通りみにつけなければ、いけなければいけないということ。同時に神様のご信用を、愈々それに伴うて受けて行くというような信心が、私は出来たときにです、理論の上から言うても、自分は、本当に間違いのない、なるほど世界の名教という名教そう言う、宗教を自分が頂いておるんだ、神様を頂いておるんだという、そのオー気持ちと、神様から頂くところの、ご信用とが、かね合わせてもって、私は、いくなければいけない。
例えば、霊徳なら霊徳の面がどんどん頂けてから、神様からご信用をだんだん頂けてくるようになりましてもそう、そろそろいうておることが、なにかその低級のことを言っておるかのように、聞こえるわけなんですね。
整然としたお話を致しましても、椛目の人たちの場合が金光教の信心を語るということになったら実にぎごちない根。整然として語るではない、そういうところが、私はやはりお道の信心をさせてもらうならば、せつかく自分が頂いておる神様を、わからしてもらうためには、やはり理論の上から立っても、有難い立派な信心をさせて頂いておるんだとわからさせて頂く意味合いにおいてもでも、勉強しなければいけんね。同時に神様のご神意を頂いていかなければならない。
今、東さんがお届けてされますように、今日、例えば不合格であったという、通知を受けましたら、その大体日頃頂いている信心から言うとですたい、「右になろうが、左になろうが」お陰であるということは分かっておるのに実感として「有難いと、また、ならお陰を頂きまして」どうでしょうかね。これが「今日、先生試験が通りました」というならば、恐らくお神酒の一本持ってから、お礼に出てくるだろう、ところが不合格だったということですから、それと同じ働きを頂いておるけれども、さあ自分の実感の上にお届けをさせて頂きよるけれども、今、お届けの内容にでも有りますように、どうしてもなんとなしに「すっきりしない、いらいらする。モヤモヤする。」できなかったということが原因のようですどうも、そして心から「神様のお骨折りに対して」からお礼を申し上げることが出来ない。
神様にどういうご都合があるやら分からない。ですからそう言う時に、先生お礼を申し上げるような気持ちというのは、どういうような信心をさせて頂いたら、どうな場合でもお礼申し上げられるだろうか。
で私が、例えば、あの「修業させていただかなけゃいけん、」例えばあんたが、部長試験の届をしてから、その方の修業というのは、まこと東さんのことだから、まあ修業が出来ておることじゃ、出来ておることでしょうけれども、「神様が認めなさる修業ができていないということ。その修業をいっぱいさせて頂いておると不思議にね、そんときが、それをお陰を頂く実感が生まれてくる。たとえていうならね、私共の勝彦が大学の受験を東京に二回でしたか、参りましてから致しましたけども、出来なかった。そん時にお礼が、本当に言えられたのは、恐らく私一人だけではなかったろうかこう思う。本人は泣き出すくらい残念だったね。でそのまあ、後になってから、あれもお陰であった、これもお陰だったという分かってくるだろうけれども、そん時は分からない。残念なことであったということになる。で私だけが何故お礼が言えたかね。実感として、私だけは、どうしてお礼が言えたか、その御礼の言えるそれが「神様の信用になる。神徳になる。」のです。その試験が出来たことが、人からいわば認められて、なるほど部長なら、部長になることが出来れるのです。信心でも、ここのところが、併せ持って出来ていかなければならないということ。
自分の信心まあ言うなら、神徳、人徳がどの程度に身に受けていきよるかということはです只今のようなことで分かる。
人間的努力の不足が、勉強不足が不合格であったと、またできたと、しかし、それはどこまでもまあいうなら、人徳的なものであり。例えばそれが「右であろうが、左にあろうが」それが有難しとお礼の言えれるような、実感を持って頂けれるということが、神徳を受けて行くことであり、そういう、兼ねあわせたものが身についてくることが、信心が身についてくるということであるね。いかにも、お話を頂いておるときに、キチット信心が身についたごとある気がする。今日はアー今までエー求めておった信心が今日こそ分かった。
けれども家に帰ったらもう、それが着くずされておるようなことでは、やはりまだ、その着物を着るのにですまだ、身についていないのだということを、悟らしてもろうて愈々その着こなしで着れる頂きこなしで着れるために、教えを本当にこなさなければだめね。そしてまあいうなら、一つのことの願えのために、例えば修業をする、一生懸命の修業をする。けれども言うなら修業がです、例えば、願っておることが「右になりましょうが左になりましょうが」どうぞ有難うございますと、お礼の申し上げられるようなお陰を頂けるために、修業せんにゃならんと、言うことにまで修業が、高度な修業になってくるわけですね、そういう修業させて頂いておれば、これを頂かんにゃならんための、修業であってはやっぱり、本当のことではない。ところがです、それでいいのです。
右になりましょうが、左になりましょうが、そん時に出たことと勝負で有難うと、頂けれるようなお陰を頂くために、今日の修業をさせてくださいというような、修業させて頂いておると、例えば「右になっても、左になっても」合格がお陰だと思っておっても、合格なかっても御礼が申し上げれる、そのお礼を申し上げれるその心がお陰を頂く元になるでしょうが、次の。ね。
不合格であった「お陰を頂きまして有難うございました」と、お礼の申し上げるそのそういう心がです、ね、神様のご神意をいよいよ頂いていくことになる。その間の一生懸命に着こなそうとする、ね。例えば、どうぞ右になっても、左になっても有難う頂けますことのための修業さして頂くということが、一生懸命こなすことである。着こなす稽古がそういうことである。そしてできるできんは別として、そこに見事な着こなしが、一つも着崩れしてないと言うような、お陰を頂くということがです、私はいよいよ信心が身についてくるというのじゃなかろうかとこう思うんですね。おかげを頂きました。